自分自身の“よわみ”との向き合い方問題 結局“つよみ”とか“よわみ”って何?

こんにちは。朝晩はだいぶ涼しくなってきました。

今日は、人の“よわみ”と“つよみ”と言われるものに関して書いてみたいと思います。

思えばこの問題、かれこれ、私が2018年3月に初めてストレングスファインダーを知ったところから勃発したことでした。

ストレングスファインダーを本当に簡単に一言で言うと、人ぞれぞれの中にあるつよみの素となる「才能」を発見するツールです。(詳しい内容を知りたい方は、当サイトの「ストレングスファインダー」の項目をご一読ください。)

現時点で4年半ほど経過していますが、誰の話を聞いても「お、そのとおりだな!」と腹落ちしたことがなく、自分でも一応プロコーチとしてストレングスファインダーのご説明をするのですが、それでも何か100%自信をもってお伝えし切れていないなぁという感覚がずっと残っていました。

それが、このたび、急にどっしりとした感覚が現れて、すっとさっと「あぁ、そうそう、これこれ」という納得できる世界観が現れたのです。

今日はこれから、私が発見した感覚をご紹介してみるのですが、そもそも、まだまだ大半の方々がすっきり感のないところを漂っておられると思うので、私の話を読んでも「ん~~??そうなのぉ~~??」という感覚が残るかもしれません。

ま、その点はご容赦ください。私ももしかしたら来年認識が変わっているかもしれませんが、今のところのベストフィットの理解です。

まずもって、この話を始める前に、ストレングスファインダーのプロになった後に待っていた疑問、質問の嵐は以下のことでした。初めて受検なさった方や人事として会社に導入されたい方から、本当によくこの質問をいただくことになりました。

 「つよみだけみて、よわみはみなくてもいいんですか?」 

はい、ごもっともな疑問ですよ。だってこれまで学校では「よわいところがあっちゃいけない」という教育を受けて来たんですから。

確かに義務教育では1科目が極端に成績が悪い場合、大人になって不便を強いられるということはあるかもしれません。とにかく社会が許容できるところまでは努力して勉強して、あるいは習得して、「社会に迷惑を掛けない人」を送り出す。これが学校の目的のように思えます。このベースの元に、「自己責任」や「自助」という考え方が成り立っているんでしょう。ですのでこのご質問、ご不安はごもっともです。
また、企業の上司や人事からすると、
「『努力を放棄している』ような背徳的な教えなんじゃないか!」という懸念を示したくなる、というのもありそうです。

そしてこの質問に呼応するように、私の周囲のストレングスコーチ達が答えていたのは、

「はい、ストレングスファインダーはよわみには着目せずつよみに着目します」

これを答える様子も何回聞いたでしょう・・・というくらいたくさん聞きました。私もそう、説明したかもしれません。
実際、Gallup社が提供する資格取得のための講座ではこのように習います。
そのうち、あまりにこの質問が多いため、コーチ達は躍起になって伝えているようなシーンも目にするようになりました。

今になって、この答えは私には大変な言葉足らずのように感じています。今日ここできちんと私の理解をご紹介したいと思います。

まず、「つよみ」「よわみ」とあまりに白黒に言っていますが、そもそもこの違いは何でしょう??

ストレングスファインダーは主にビジネスシーンでうまくいかせるためのツールですので、「ビジネス上の」価値が多分に含まれていることをまずは十分理解していないといけません。
つまり、誤解を怖れずに言うと、ここでいう「つよみ」とは仕事上で必要な特性ということになります。(人気があるかどうか?とはまた違いますので断っておきます)早い、正確だ、アイディアを出せる、人を束ねられる、コミュニケーションが上手だ、代表的なこれらの才能に加えてストレングスファインダーはたくさんの細かな才能を示唆してくれます。
自分が得意なものとして持っている武器や力を鍛えたり活かしたりして「つよみ」にしていく方法を、Gallup社は本当に豊富に説明してくれています。

では「よわみ」とは何なのか?

私の考えでは、「つよみ」の状態が発現することを妨げられる状況のことを「よわみ」と言うのではないかと思います。

世間一般では、「誰かが期待することができないこと」が「よわみ」という定義が市民権を得ているようですが、そもそもストレングスファインダーが教えているある人の「得意な才能」とは、「(人がやれと言わなくても)勝手にやっているもの」なので、「できない」とか「やりたくない」という状況は考えづらく、ということは市民権があるほうの「よわみ」とは、「誰かの期待や価値観の植え付けにより『できない』とされたこと」という定義が近いように思います。

つまり、この状況で「よわみ」に苦しめられるのは、誰かや社会の期待にそえないので苦しい、ということなのかもしれません。
しかし、A型の血液型の人にAB型の血液型が優秀だからと言って輸血しても害になるだけです。
世間一般の「よわみ」ではなく、本来個々人が向き合うべきは、前者の方なんだと思います。

私はこのことを強く確信したときに、つまり、「つよみだけを見て、よわみは見ない」、なんていう取り扱い方は無いのではないか、とはっきりと思ったのです。

世界や自分の周りが、望ましくない結果になってしまうとき、これは「力が適切に使われず、不幸な使われ方をされるとき」なのではないでしょうか。

どんな人の中にも「原子力」のような才能がある、というと怖くなるでしょうか。つよみに使えている状態は電気を安定供給しますが、よわみになるとどうでしょう。もちろん電気の供給は途絶えて、それどころか何世代にも亘って悲しみを作り出してしまいます。

私たちの日常ではどうでしょうか。自分には人を傷つけたり追い詰めたりする力が無いと思い込んでいると、うっかりネット上を荒らすことにもなったり、職場の誰かを退職に追い込んだり、カスタマーハラスメントになったり、こんな結果を招くかもしれません。

人は誰でも、使い方の知らない武器や力を持っていると気がついた時には、同時にそれらとうまく共存する方法を学んだほうがよさそうに思えます。

よくストレングスファインダーで得られる結果の下の方に出てくる資質(才能)についても質問があります。「私には●●の才能がないんでしょうか?(がびーん・・・)」というような・・・。

下位の資質(才能)は、自分とは遠い力や武器ということです。これらは、自分から遠いので遭遇する確率が低いためあまり学ぶ必要はありません。自分や他人を不幸にするリスクが低いのです。ところが上位の資質(才能)は違います。原子力発電のようにいつも作動しているため、安全運転できているか、という責任が伴います。これが上位資質です。

自分が上位として持っている資質(才能)の牙や爪や包丁という側面を学ぶこと=結局つよみとよわみは隣同士で、どちらかを見ずに生きて行くということは不可能ってことなんだと思います。

最後に、マリアンヌ・ウィリアムソンさんという方がおっしゃったという言葉を添えて終わりにしたいと思います。それではまた~。

私たちがもっとも恐れるのは、自分の無能さではありません。私たちがもっとも恐れるのは、自分たちに途方もない力が与えられていることなのです。私たちをもっとも恐れさせるのは、私たちの中にある闇ではなく、光なのです。~中略~自らの光を輝かすことで、無意識のうちに他人も同じことができるようにしています。恐怖心から解放されたとき、私たちの存在が自動的に他者を解放するのです。」

※ネルソンマンデラ氏の1994年の大統領就任演説の一部。マリアン・ウィリアムソンの著書、「愛への帰還」の中にある詩がオリジナル

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