こんにちは。Nurture&Matureの飯沼美絵です。
もうすぐ桜が見頃になるようです。それまでに花粉がどうにかちょっとでも手を緩めてくれたらいいんだけど・・・。
そんなの甘いか~w
さて今日は、話題の映画と関係性について見ていきたいと思います。
映画「エゴイスト」。
鈴木亮平と宮沢氷魚が恋人として描かれる映画です。
つまり、同性愛者の、ゲイの二人の話です。
ここからは主に、セクシャルマイノリティに関する話になってきますので、あまり読みたく無い方は無理しないでくださいね。
お付き合いいただける方はぜひ読んでくださると嬉しいです。
(ネタバレあります)
最近だと、日本のセクシャルマイノリティを題材にした映画で話題になったのは「ミッドナイトスワン」とか「窮鼠はチーズの夢を見る」とかがあります。
何かしら、おおっぴらにできない自分の側面を持ちつつ、社会とも接点を持ち続けていくという複雑さ繊細さが扱われていたように思います。
上記の2作品は、私の感想は、美しさと儚さが全面に出ていたな、という感じでした。
今回のエゴイストを見終わったときの感想。
?何がエゴイストだったのか?誰がエゴイストだったのか?
率直にこんな感じです。
美しさも儚さも語られてはいましたが、どうも、ちょっと伝えたいことが違うっぽい。
まず見ていて、最大の違和感を感じたのはカメラワークでした。
近いんですよ!とにかく対象物からカメラの位置が近い。
後で知ったのですが、三半規管の弱い人は後列で見るように公式サイトには注意があったようです。
ずーっと、鈴木亮平の背中を、すぐ後ろを歩いている感じのアングルで見せられる。
あと、人物の顔もかなりのアップ。
特に主人公二人の描写は終始そんな感じでした。
気を抜くと焦点が合わない感じw
つまり何を意図していたんだろう?
観ている側にずっとピントのあわなさを感じさせる映画。
しっかり彼らの世界を覗けない、そんなちょっとしたフラストレーション。
話は、二人が出会い、氷魚くんの方からアプローチしていくのですが、最初あまりにピュアすぎて多くの人は何かしら彼に対して疑惑を持ったのではないでしょうか。
通常のお話ならば、この後この氷魚くんの行動が伏線回収されていく話になるのかなと思います。
今はなんてったって、伏線と伏線回収が流行ですもんね。(そう思っているのは私だけ?)
それはそれで、がっつりお話に関わったな!という何か充実感?達成感?みたいなものがあって楽しいです。
そういう話が“つくられた“という感じがない。
ドキュメンタリー、限りなくドキュメンタリー、だと思います。
何か観ている側を意図的に置き去りにしている?そんな感覚でした。
わかりやすい映画やドラマはしっかり伏線をつくって、視聴者に楽しませることを目的として作られている感じがします。
私は観ていて、氷魚くんがピュアでかわいそうでお金がなくて、亮平さん側をのめり込ませて行く構図から、「氷魚くんは欺しているに違いない」という予測を持っていました。このあとどんな悲劇があるんだろうと。
この後もどんどん二人の距離が縮まり、亮平さんが何かと氷魚くんとお母さんの生活の面倒を見るようになっていきます。
氷魚くんはいつも一度は断るものの、病気がちなお母さんを守る経済力がなく、亮平さんの支援を“ありがたく”受け入れていきます。
ところが、突然、氷魚くんが死んでしまいます。
理由らしいナレーションもなく、納得するような描写もなく。
最初の方で、氷魚くんが亮平さんに苦しそうに言います。
「浩輔さん (亮平さんの役名)に出会うまではうまくできていたんだよ」
何がうまくできていたんだろう?
彼は身体を売っていたようなので性的なことをメインとして言っていたのかもしれないけど、どうも、それだけではないと思うのです。
私が最初に書いた、
“何かしら、おおっぴらにできない自分の側面を持ちつつ、社会とも接点を持ち続けていくという複雑さ繊細さ”
に、折り合いがつけられなくなってしまったのではないか? と思ったのです。
対照的に、亮平さんの側は華やかなファッションの世界で成功し、どこか都会の高層階のスタイリッシュなガラス張りのマンションで、ブランド物に護られながら一人で生きている。
ゲイ仲間と飲むときはオネエ言葉で仲間とはしゃぎ、実家や氷魚くんのお母さんと会うときは常識ある大人の男になりきり、仕事では職人としてブランド服を着こなし業界人として完璧に振る舞う。
二人は対象的でありながら、どこか亮平さんも紙一重さを感じさせる。
彼らにとっての“うまく”というのは、セクシャルマジョリティにはない、いくつもの自分の側面を完璧にうまく使いこなさないといけないのかもしれない。
どれも真実らしいし、作り物かもしれない。そんな区別さえないのかもしれない。
そんなパラレルワールドに迷い込んで自分を見失って、生きていけなくなる。
それが氷魚くん演じる龍太の人生だったのかもしれない。
この映画を観た後に感じたちょっとした怖さ。
何も真実だと安心できる物がなく、かといってフェイクやフィクションという世界にも逃げられない。
同性愛者が生きている日々というのはこういうものなのかもしれない。
ガラス張りのこちらから、決して向こうにいくことのできない世界を見ている。
結局、何がエゴイストだったのか?誰がエゴイストだったのか?
亮平さん演じる浩輔は、龍太が亡くなってからも龍太のお母さんに半ば無理矢理に生活費を渡し続けます。
よかれと思って、相手が“ありがたく”受けてくれる関係がまた心地良くて、自分がしたことが相手を死に追いやったと思いたくなくて、
同じことを、欲しい結果が出るまで繰り返してしまう。
2人が同じ目的を持って行動するとき、こんなふうに盲目的にその方法を信じてしまうような体験やシーンは身近にありますか?
そういう場合、映画のように、一方のものすごく強い愛から来るものということもありますよね。例えば親子とか。
関係性というのは、こんなふうに、自分達は幸せに向かっているのだと固く信じているにもかかわらず、周囲からみると少々共依存的すぎて解決が難しくなっている、というようなこともあると思います。
みなさんはこの内容からどんなことを感じ、学ぶでしょうか。
人間関係って本当に複雑で思い通りにならないことが多いですね。それでも良くしようと頑張っておられる方、全ての方に祝福とエールを送ります。
折しも春、季節も関係性も必ず巡ります。大事な人たちと、3年ぶりのお花見を楽しんで歌って踊るのもいいかもしれません。
それではまたね。
コメント