こんにちは。Nurture&Matureの飯沼美絵です。
本日は12月29日。みなさま今年はどんな1年だったでしょう?
私は12月中旬に無事、Web披露宴を終えました(*^-^*)
“Web披露宴”とは私がつけた名前でして、Webが産まれたことを一緒にお祝いして頂こうと企画したイベントでした。
ご参加頂いた皆様、メッセージをくださった皆様、見守ってくださった皆様、本当にありがとうございました。
時間は1時間半と、内容を考える前に直感的に決めてしまったのですが、さて、何をしよう?と近くなって悩みました。
Webの披露だけで1時間半も??そんな真面目な話ばっかり聞かされてもつまらないだろな~とか。
参加する人はどういう人で、何人くらいかな?とか、、
Webが完成した直後から実施しようと思って考えはじめたことではありましたが、実は、散々悩みました。
まずは、10月末にご招待状をお送りしました。
Nurture&Matureが誕生するにあたり、私の認識出来る範囲ではありますが、何かしらの波動をくださった方々にしました。
その招待状が↓です笑
当日は、みなさんに笑ってもらったり、聞いてもらったり、歌ってもらったり、歓談してくださったり、私が作りたい披露宴そのものになりました。
私が本当にやりたかったこと。
Nurture&Matureのエッセンスをみんなで体感すること。
みんなで大切に守り育て、みんなで成熟していくこと。だから、私がその人との関係性の歴史をまず紹介したかった。
そして、もし私の大切な人たちが大切な人たちとまた繋がってくれたら、心底憎しみ合うような関係性がなくなるんじゃないだろうか。
そんな世界を作りたい。
心地良い関係性がずっと続くわけではないとわかっていても、今年も相当な複雑な社会でみんな頑張ってきた中で、心地良い場所は存在するし、作れるんだっていう体験を共有したかった。
振り返るとそんな想いがあったように思います。
私は全力でお一人お一人をご紹介しました。それは、私の関係性の披露宴、でもあったようです。
2on1という関係性を繋げる仕事をしていますが、私一人でやっているには間に合わないスピードで、健やかなコミュニケーションが取れないままに、相手との関係性がどんどん悪化してしまうスピードの速さの方が勝ってしまう現実に出くわします。
他者への憶測やレッテル貼り、ポジティブな関係性を実現しようとすることへの諦め、相手の言い分を全く聞かないだけの非難。
私にも今年そんな関係性がありました。私も当事者の渦中となると絶賛勉強中ではありますが、 (汗!!)
Nurture&Matureは自分にやさしさやスペースを保つための屋号でもあります。
自分が何かを正しくパーフェクトにできないと、自分の力を発揮してはいけないのか。
絶対そうではないと思います。
多くの人の生きづらさの正体はここにあると思っています。
私たちは成果を出そうとしたり、今より、よりよい自分になろうとして知識を蓄えようと学んだりします。自分の側に豊かさを得るために。
ところが自分が当然得られると思って期待した先に、誰かや何かの不当な力で奪われたと感じる時、自分を屈服させて“仕方ない”と言い聞かせるか、他人を屈服させて自分の正当さを主張するか、どちらかに陥りがちになります。
一方的に弱い立場に立たされて、大切なものや期待していたことを搾取されてしまった経験。そんな記憶はありますか?
男女差別、性的マイノリティへの差別、人種差別、出身や家柄への差別、いじめ・・・・など。
そういう記憶は、もう二度と同じ立場になりたくないために、強い側に立とうと頑張ります。
成果を出そうとしたり、学んだりするのは、自分が弱い立場になって痛い思いをしたくない。
それは1つの賢い生き方だとは思いますが、見渡してみて、自分の替わりに弱者になっている人達はいないでしょうか。
ある学びのコミュニティや環境関連のアクティビストさんたちが頑張りすぎて、分断を産む構造も、今年はたくさん見ました。
こっちのほうが正しいんだよ、なぜみんなやらないんだ??と強烈な非難を世界に投げ込みます。
私はこのことがいずれ近い将来、気候変動のスピードよりもずっと早く、人間が健やかに生きられる環境を破壊してしまうのではないかと心配です。
ある気候変動関連のコミュニティで話されていたことですが、お酒を飲むならビールよりも焼酎の方が環境にはいいのだ、と専門家から教えてもらった、という話がありました。
これを聞いて私は悲しくなってしまいました。美味しいビールを造ることに人生をかけている方のあり方が否定されてしまったような、同時に私の中の何か奥の方の繊細なところにヒビが入るような感覚でした。
ビールで乾杯したときの嬉しさ安堵感や一体感や高揚感。まだ人生真ん中ですが、何百回もらったことでしょう。
私は、美味しいビールを届けて人が笑顔になってくれることが嬉しい、という人たちの生きがいを搾取されて欲しくないのです。
やさしさを保ちながら学んでいくにはどうしたらいいでしょうか。
幸いにも、私は今年はたくさんの新しい友人、旧知の友人と語らい合い、仲間同士のたくさんの愛情やいたわりを交わしてもらいました。
たくさんの非難や分断を見た分、それ以上に愛情ある関わり合いにも出会いました。
非難や分断も、元々は愛情だったのですが、痛みの方が強くなると離れざるを得ない間柄になってしまいます。
学びや知略が自分やどこかの派閥存続のためだけに使われない世界の実現を心から願っています。
もはや生きづらさを感じていない人の方が少ないように感じます。
ぜひ、そういう中で自分が強くなるだけではなくて、たまには自分へのやさしさを最優先してみませんか。
相手が“反撃だ!”と言って攻撃してきたとしても、自分にとってはただの不当な攻撃と受け取ることが多いですよね。
相手にとって“武器”と見られているものを置くこと。攻撃能力を上げることは決して抑止力にはなりません。
自分の持ち物がどんなふうに見られているのか、もしそれが武器であるなら、来年あなたは何を替わりに持ちたいでしょうか?
来年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
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