2024年秋から実験的にスタートしている、「災害サロン」。 今期2期で、三河ツアーに行きました。
最後はみんなでワークをやりました。 避難所運営ゲーム、通称HUG。
大災害が起きて、仮にあなたが学校の体育館で避難所の運営メンバーの一人になったとして–という想定です。
製網会社さん、海苔販売会社さんの、どんどん小さくなる海苔漁と技術を地域の未来にバトンパスをするお仕事を観て、 ビオあつみの棄てられていたものを未来の栄養に繋ぎ直すパワーを観てきて。
あるメンバーが、このゲームの終了後に「怖くなった」と言いました。
私は彼女の言葉を聞いて、それはそれは地域に愛情をかけているからこその震え、なんだろうなと感じました。
そして、他のメンバーからも、
「マイノリティに目を向けている場合じゃない!」
「とにかく初日は命を守ることに専念すべし」
「テントにいたい、車にいたい、という人の要望をそのまま受けてしまっていいんだろうか?」
「この運営メンバーも被災者ですよね、だったらもっと避難者に役割を渡して巻き込めばよかったのかも。」
チーム全体ではこういう揺れがおきました。
さすがみんな、災害に9ヶ月しっかり向き合ってきた仲間達。
答えが明白なことならば、スキル向上訓練さえすればもっと防災に取り組む人も増えるでしょう。
しかし揺らぐことを受け入れることが防災を考える第一歩だと思っています。
私が災害を相手にしていつも考えている問いは、
「尊厳は命より軽いのだろうか」 ということ。
例えば、知らない男の人のそばに肌が触れあうほどにいなければならないとして、 過去に性暴力にあった女性が、言い出せず体育館に押し込められたとする。
これは本当に守られた、と言えるのか?
もちろん、避難してきた人の命を助けることさえも、本当に大変だろうと思います。本番は。
その上で、 ビオあつみの人たちがニワトリたちにあえて、「これは食べちゃダメだよ」ということをせず、自分たちで「食べる・食べない」を選んでいるように、 自分たちで必要な尊厳を選べる場所を作れないだろうか?と思っているんです。
そのうちの、私の今の仮説の1つが、自分たちで作る小規模な避難所です。
住んでいる、あるいはいつも出入りしている地域の広めの場所、あるいは、大きめのお家でできないだろうかと模索しています。
実際、大きな災害の時は、公的避難所でなくてもお寺などが大活躍しています。
あえてちょっと尖ったことを提示しますが、 私がこの災害、防災を仕事にしている理由はこれで、 仕事においても、「仕事だから仕方ない」といろんな人間的な豊かさを無視していく組織が出来あがってしまっていないか、ということなんです。
私たちが日々の営みの中で、本当に得たかったものって何だっただろうか。
仕事においても、「仕事だから仕方ない」と人間的な豊かさを無視していく組織。 それは災害時に「命さえ助かればいい」と個の尊厳を後回しにする思考と、地続きではないかと思うのです。
確かに一時我慢して、自力で元に戻れる人もいる。
でもそれは、特権です。
現実に、避難所で深刻な心理的ダメージを受け、そのまま立ち上がれなくなった人たちが今でもたくさんいるんです。
「命が助かったんだから、贅沢言うな」
私たちが本当の意味で向き合うべき「災害関連死」の正体は、こうした声に押し殺された悲鳴の中にこそあるのだと思います。



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